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グループAの日産「R32 GT-R」は無敵だった! 当時憧れたカラーリングのマシンとドライバーで不敗神話を振り返ります

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TEXT: 御堀直嗣(Mihori Naotsugu)  PHOTO: 増田貴広

それぞれにドラマを感じさせる個性派揃いのドライバー布陣!

2年目の1991年シーズンに入ると、GT‒Rの参加台数が増え始めた。勝つ機会を手に入れようと、各ドライバーたちの熱意は尋常でなかった。同時に、それぞれのチームに新たなタイヤメーカーとの関係があった。ひとつは横浜ゴムである。アドバンカラーに彩られたワークスチームがGT‒Rで現れる。ドライバーはグループA仕様の開発を担った高橋健二であり、パートナーは土屋圭市だ。

アドバンカラーのGT-R

ドリキン(ドリフトキング)こと土屋は、全日本選手権で総合優勝を狙える体制での参戦に喜んだ。さらに彼を狂喜させたのは、翌1992年から憧れの高橋国光と組む体制になったことだった。また、土屋は星野の片輪走行を身に着けようと奮闘した。そして1994年にMINEの予選でポールポジションを獲得し、続くオートポリスで総合優勝も手にすることになる。かつての日産ワークスドライバーの大御所である高橋国光は、そうした土屋の奮闘ぶりを微笑みながら見つめ賞賛した。

もうひとつのタイヤメーカーは東洋ゴム。ドライバーはモータージャーナリストの清水和夫と全日本F3チャンピオンの影山正彦だ。東洋ゴムも4輪駆動のGT‒R用タイヤの開発で苦戦を強いられた。だが、ある練習走行の折、後輪用タイヤを前輪に間違って装着して走ったところ、タイムが改善されるという想定外の出来事があった。これをきっかけに東洋ゴムは急速に進歩し総合優勝争いに加わるトップコンテンダーとなったのである。

そして、1991年の最終戦である富士のインターTECで星野のカルソニックスカイラインに次いで2位に入った。そして翌1992年の鈴鹿でついに優勝するのである。

その1992年は、ドライバーの組み合わせに入れ替えがあった。清水のパートナーは影山からデンマークのトム・クリステンセンに替わり、そして影山は星野のパートナーを務めるようになった。

トム・クリステンセンも全日本F3選手権のチャンピオンとなり、F3000への昇進を果たしていた。しかし、必ずしもチームが十分な戦闘力を発揮できずにいたところ、グループAに抜擢されたのである。常に攻めの姿勢で臨むクリステンセンの走りはGT‒R同士の優勝争いに刺激を与えた。後にクリステンセンはドイツ・アウディのワークスドライバーとなり、ル・マン24時間レースで7勝を挙げ、歴史に名を残すことになる。

長谷見のパートナーを務めていたオロフソンは、1992年に自らが主ドライバーとなるチームを得た。パートナーは木下隆之である。木下は自動車雑誌編集者からプロフェッショナルレーシングドライバーに転身。ドイツのニュルブルクリンクを得意とするドライバーの一人となる。またモータージャーナリストでもあり、グループA当時、オロフソンと組んだときの経験が大いに役立ったと語っている。

同じく、かつて星野のパートナーを務めた鈴木は、1993年に自らが主ドライバーとなるチームに迎えられた。そのパートナーとなったのは、日産レーシングスクールを卒業して間もない飯田 章であった。その年の筑波でこのチームが優勝している。飯田は後に高橋国光や土屋とル・マン24時間レースにホンダNSXで参戦することになる。グループA時代のR32でプロフェッショナルとしての技量を高めていったのだ。

異色な存在として萩原 修がいる。横浜ゴムでアルミホイールをデザインしている会社員。羽根幸浩のパートナーとして参戦し、1993年の菅生で優勝を経験した。羽根は1999〜2000年にFIAのGT選手権に出場するなど、国内外を通じて活動の場を広げたドライバーだ。

ドライバーの移籍などによりバトルはより白熱する

クリステンセンがセカンドドライバーを務めたチームのエースは1993年から横島 久に替わった。横島はR32が登場する前の1988年にフォード・シエラRS500でグループAの王座を獲得。フォーミュラからツーリングカーまで、速く、粘り強いレース展開をする知能派だ。

長谷見昌弘のパートナーとして、オロフソンの後を継いだのは福山英朗であった。鈴木利男と同世代でFL500で活躍した後、F3やF3000への昇格も果たした。後に米国のNASCARへの思い入れを深くし、自らが操るだけでなく、TV中継の解説なども行っている。

見崎清志と長坂尚樹の組み合わせも忘れられない。見崎は元トヨタのドライバーであり、マカオグランプリやル・マン24時間レースでも活躍。また『ヘアピン・サーカス』という1972年公開の映画の主役も演じている。長坂は、グループAの初年である1985年にBMW635iで王座を勝ち取り、1987年にはフォード・シエラRS500で再び王座を手にしている。F2のほかツーリングカーやGT、ル・マン24時間レースにも参加し何に乗っても速いドライバーの一人だ。

1990年にR32がグループAに登場すると、GT‒R以外は勝てない状況になった。通常なら面白みに欠ける危惧もあるが、以上のような多彩なドライバーの駆け引きと、四つのタイヤメーカーの奮闘などにより、目の離せないレースへと成長した。そして1993年にグループAは最終戦の富士で、9万4600人の観客に見守られながら幕を閉じたのであった。

(この記事は2023年8月1日発売のGT-R Magazine 172号に掲載した記事を元に再編集しています)

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