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グループAの日産「R32 GT-R」は無敵だった! 当時憧れたカラーリングのマシンとドライバーで不敗神話を振り返ります

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TEXT: 御堀直嗣(Mihori Naotsugu)  PHOTO: 増田貴広

  • 1993年の菅生で迫力ある走りを披露するSTPタイサンGT-R
  • 東洋ゴムのタイヤで戦っていたAXIAスカイライン。写真は1992年のレース・ド・ニッポンだ。ドライバーは清水/クリステンセン組。同年7月に開催された鈴鹿500kmレースでは優勝も経験している
  • 長谷見昌弘はユニシアジェックスのイメージも強いが、1990~1991年にはリーボック スカイラインで戦っていた。コンビを組んでいたのはアンダース・オロフソン。タイヤはダンロップで1991年には年間王者を獲得
  • R32参戦初年度となる'90年の筑波サーキット。レース・ド・ニッポンでカルソニック スカイラインは勝利を収めている。星野一義と共にステアリングを握ったのは鈴木利男。当時の観客の多さにも驚かされる
  • 星野と言えば縁石に乗り上げる走法が有名だが「まるでスポンジの上に乗ったように上がり、スポンジの上に下りていくようで、星野さんの縁石の使い方は美しい。誰も真似はできない」と土屋圭市が語る
  • グループAのGT-Rとしては異色の存在であるHKS。1992~1993年に参戦しており、ドライバーは羽根/萩原組。写真は1勝を挙げた1993年菅生だ。荻原氏は横浜ゴムでホイールをデザインする
  • 1993年菅生での長谷見昌弘。パートナーは福山英朗であり、マシンはユニシアジェックス スカイラインとなった。幼少期から数々の伝説を残したことで「天才」と呼ばれていた。星野同様グループAの主役だ
  • ハコスカ50勝を達成した際のドライバーであり、高橋国光の走りに魅了されプロドライバーを目指した人も少なくない。写真は1992年筑波のレース・ド・ニッポン。星野/影山組に次ぐ2位を獲得した
  • R32参戦初年となる1990年の富士インターTECは星野/鈴木組が優勝。2位は長谷見/オロフソン組だが1周遅れ。3位のフォード・シエラRS500はさらにもう1周遅れとまさに圧倒的な強さだった
  • グループAの最終年となる1993年には鈴木のパートナーとして飯田が大抜擢されており、8月に開催された筑波で優勝も経験している。2位は星野/影山組で、3位は横島 久/トム・クリステンセン組である
  • 1992年には本誌でもお馴染み木下隆之がオロフソンと組んで参戦。第2戦オートポリスと最終戦富士のインターTECで優勝を飾っている。写真は筑波で3位に入賞したレース時のもの
  • FET SPORTS GT-Rは優勝こそないものの、グループA最後のレースとなった1993年富士インターTECで2位となるなどいぶし銀の走りを見せた。見崎/長坂組も名役者と言える
  • 若かりし頃の飯田 章氏
  • グループAの主役と言えば、恐らく誰もが星野一義の名前を挙げることだろう。速さだけではなく、縁石に乗り上げるR32のカッコよさや気性の荒さに魅了されたファンも少なくない。日本一速い男の異名を持つ
  • 赤×黒のADVANカラーを身にまとったSTPタイサンGT-R
  • 圧巻のレース展開でファンを魅了したグループA仕様のR32GT-R

市販車と同じ姿で戦う姿に多くのファンがときめいた

グループAで勝つために生まれたBNR32は、結果圧倒的な強さと速さで他を凌駕した。ライバル不在でもその人気は衰えることはなく、観客を熱く燃え上がらせた。ほんのわずかなドライバーだけがシートを手にすることができたのだが、誰もが主役を張れる役者揃いだったのは確かだ。伝説となっているグループAでの活躍などを振り返る。

(初出:GT-R Magazine 172号)

もはや他メーカーに敵はなし! 日本一速い男と天才が真剣勝負

グループAで勝つために開発されたR32GT‒R。初参戦した平成2(1990)年3月のシリーズ第1戦、西日本サーキット(後のMINEサーキット)に衝撃が走った。出走した2台のGT‒Rは他を圧倒して1〜2位でチェッカーフラッグを受けたのはもちろん、2位のGT‒Rさえ星野一義のカルソニックスカイラインから1周遅れだったのだ。3位といえばさらに1周遅れ。続く菅生での第2戦も2台のGT‒Rの後の3位は1周遅れ。第3戦の鈴鹿では2台のGT‒R以降は3周遅れという結果である。

シリーズ全6戦の半分を終えた時点で、もはやGT‒Rの敵はいないことが明白になった。GT‒Rに乗れなければ勝てない。これはプロフェッショナルなレーシングドライバーにとって死活問題である。それまでスカイライン以外の車種でグループAを戦ってきた彼らは、必死にGT‒Rに乗る機会を探した。逆にようやく年間王座に手が届く機会を得た日産自動車と関係の深いドライバーたちは勇躍した。

1989年に市販されたR32GT‒RはグループAに出場するため、高橋健二の手で精力的に開発が進められた。ここで使われたタイヤはブリヂストンであった。この1年間で、ブリヂストンはGT‒Rに最適なタイヤの知見を積み上げていた。

R32GT‒Rの諸元は、グループAの車両規定で優位になるため、一般には不自然とも思える数値を持っている。例えば排気量2.6Lという数だ。2Lでも3Lでも、その中間の2.5Lでもない。当時のガソリンエンジンとしては半端な排気量であった。だが、この排気量こそが意味を持っていたのだ。当時のグループA規定は、エンジン排気量ごとに装着できるタイヤ寸法が定められていた。従ってターボチャージャーの過給を得ながら出力を上げ、その大馬力を速さに結び付ける最適なタイヤ寸法を手に入れるため、2.6LのツインターボガソリンエンジンがR32GT‒Rの諸元値となった。

それでもなお、タイヤは300psを超えるとされた高性能を活かしきれないため、GT‒Rは4輪駆動を採用した。過去のスカイラインの歴史にはなかった4輪駆動車の登場である。また、規定一杯のタイヤ幅をオーバーフェンダーなしで装着するため、スカイライン自体は5ナンバー車で開発されたが、GT‒Rは前後にブリスターフェンダーを装備する3ナンバー車となった。

このグループA仕様のGT‒Rを初戦で勝利に導いたのは「日本一速い男」の異名をとる星野一義である。星野は高性能な4輪駆動車を300kmという耐久レースの中で最大に活かし切るため、コーナーで内輪を浮かせて走る片輪走行を編み出した。ネガティブキャンバーに調整された外輪側のタイヤがコーナリング中にほぼ垂直に立ち、適切な接地面でタイヤへの負担を抑えながら、最大のグリップを得る走法だ。

星野一義氏

星野のそうした果敢な走りを、第2ドライバーとして支えたのが鈴木利男である。全日本F3の初代チャンピオンという実力で、フォーミュラ志向ではあったがGT‒Rを乗りこなし、度重なる優勝に貢献した。その鈴木は、R35GT‒Rの車両開発責任者であった水野和敏氏の指名により、開発ドライバーを務めたことは知られるところである。ちなみに鈴木は、グループCでも星野のパートナーを務めている。

最強のカルソニックスカイラインに挑んだのは長谷見昌弘だ。天才と謳われる長谷見のGT‒Rはダンロップタイヤを装着していた。グループA仕様の開発で1年先行してGT‒Rの経験を積んだブリヂストンに対し遅れての開発となり、ダンロップは試行錯誤の連続となった。そうした中、単なる勝利ではなく年間王座こそがプロフェッショナルとしての価値だと考える長谷見は、巧みなレース戦略で勝ちを目指し、1991〜1992年と連続でグループA王座を手にしたのであった。

パートナーを務めたのは、スウェーデンのアンダース・オロフソンである。オロフソンは1986年のグループA最終戦インターTECに来日し、フライング・ブリック(空飛ぶレンガ)と形容されたボルボ240ターボで優勝している。オロフソンも鈴木と同様に着実な運転で長谷見の王座獲得に応えたのである。

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