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小林彰太郎氏ゆかりのレースカー「インヴィクタ」とは? 日本のモータースポーツの黎明期を伝えるクルマに富士モータースポーツ・ミュージアムで出会える!

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TEXT: 原田 了(HARADA Ryo)  PHOTO: 原田 了(HARADA Ryo)

  • インヴィクタ 4 1/2:テール部分が絞られた、いわゆる“ボートテール”。当時のブガッティやアルファ ロメオを見よう見まねで作ったというが、美しいフォルムだ
  • インヴィクタ 4 1/2:リアサスペンションはリーフリジッド式。大ぶりで、そして放熱効果に優れたドラム式ブレーキを備えている。ショックアブソーバーは摩擦式だ
  • インヴィクタ 4 1/2:フロントサスペンションもリーフリジッド式。フロントと同様に摩擦式のショックアブソーバーを装着しているが、こちらはずいぶんと小振りになっている
  • インヴィクタ 4 1/2:富士スピードウェイのパドックを使っての走行披露会でテント下に待機するインヴィクタ。保安部品も装備し、ナンバー登録も済ませているとか
  • インヴィクタ 4 1/2:インヴィクタのコクピット。大径2眼式のタコメーターとスピードメーターに加え、小径のメーターがいくつも装着されている
  • インヴィクタ 12/45:10年近く前にイギリスのコッツウォルズ自動車博物館で出会った1932年式のインヴィクタ 12/45。生涯で初めて、そして富士モータースポーツ・ミュージアムで出会うまでは唯一の邂逅だった
  • 2024年12月中旬に富士モータースポーツ・ミュージアムで「1929年インヴィクタと日本のモータースポーツの夜明け」をテーマに行われた講演会。パネルを使って自己紹介する小林大樹氏(写真左側)
  • イギリスの上級自動車メーカーとしてのインヴィクタを解説する小林大樹氏。集まった聴衆も、興味深そうに、小林氏の講演に聞き入っていた
  • インヴィクタ 4 1/2:富士モータースポーツ・ミュージアムに展示されているインヴィクタ。全高は少し低めだが、ノーズが長い、典型的なクラシックカー・スタイルだ
  • インヴィクタ 4 1/2:抽選に当たった観客やジャーナリストをタンデムに乗せて本部をスタートしていくインヴィクタ。このカットではミッションケースの低さが明らかだ
  • インヴィクタ 4 1/2:走行を終えて本部に戻り、バックでテント下へと移動するインヴィクタ。メインフレームの下にオイルパンやクランクケースが覗いていることからもエンジン搭載位置の低さが分かる

国内モータースポーツの黎明期を伝える証言車

100年近く前のレーシングカー、1929年式インヴィクタ「4 1/2」が富士モータースポーツ・ミュージアムに展示されています。インヴィクタはかつて、日本国内に1台が輸入されていました。今回紹介する個体は日本国内と海外を何度も行き来した数奇な運命を持った1台。詳細をお伝えします。

多摩川スピードウェイに出場するためレーシングカーに改造

「インヴィクタ」というクルマをご存じだろうか。イギリスで1925年から1935年にかけて存在したメーカー(当初はバックヤードビルダーだった)で、エンジンをはじめとする優秀なコンポーネントを集めて組み立てることで優れたコンプリートモデルを産み出していた。そのインヴィクタはかつて、日本国内に1台が輸入されていた。今回紹介する個体は、日本国内と海外を何度も行き来した数奇な運命を持った1台で、正規の状態から何度かの変更を受け、モータースポーツの世界でも活躍した歴史を持っている正真正銘のヒストリックモデルだった。

10年近く前、イギリスの自動車博物館を歴訪した際にコッツウォルズ自動車博物館(The Cotswold Motoring Museum)で出会ったクルマに、1台のインヴィクタがあったが、ビューリーにある国立自動車博物館(Beaulieu National Motor Museum)でも、英国車ならほとんどラインナップしていると言われる英国自動車博物館(British Motor Museum)でも出会えなかった、まさにレアなモデルでもある。

今回の主人公となるインヴィクタは岐阜の素封家、渡邊家の14代目である渡邊甚吉さんが、東京商科大学(現・一橋大学)を卒業後、1930年にヨーロッパに遊学した際にロンドンで運転免許証を取得し、同年にロンドンで1年落ちの中古車として購入した、4.5Lのメドウス・エンジンを搭載した「LC」モデル(4 1/2L)だ。

当時の購入価格は3300円と言われるが、現在の貨幣価値としては諸説あるものの約3300万円くらいだとされている。帰国後には岐阜薬科大学の設立資金、10万円(前述の計算式では現在の10億円)を寄付し、貴族院議員としてサイドカーで登院したとも伝えられている人物だ。

そんな1929年式のインヴィクタ LCは1930年の年末に輸入され1931年から1934年ごろまではショーファー・ドリブン、いわゆるお抱えドライバーが運転する格好で使用されていたが、多摩川スピードウェイの建設が発表されるとレーシングカーに改造されることになる。

改造を担当したのはダットサンやオオタからボディ製作を請け負っていた梁瀬自動車(現ヤナセ)で、シャシーを切り詰めると同時にラジエターやエンジンの搭載位置をより後退させるとともに低下させ、ボディもボートテールに作り直している。

第1回全国自動車競走大会では見事優勝

エンジンの搭載位置を後退・低下させるのは、かつて全日本GT選手権やSUPER GTでも実施されていたレーシングカーを製作するうえでの常套手段。エンジンはノーマルのままだったようだが公道でテスト(多摩川スピードウェイができるまで最高速を試せる常設サーキットなどなかったからテストは公道で行うのが一般的だった)した際に130km/hほど出して交通警備の警察官(現在のような白バイではなく、赤く塗られた“赤バイ”だったという)に捕まり15円(同15万円)の罰金を支払ったという「武勇伝」も伝わっている。

そして1936年に竣工し同年5月に開業した多摩川スピードウェイの杮(こけら)落としとなった同年6月開催の第1回全国自動車競走大会に、ショーファー・ドリブン時代にお抱え運転手として勤務していた川崎次郎氏のドライブで参戦した1929年式のインヴィクタ LC“改”は見事優勝を飾っている。ちなみにこのイベントでは後に本田技研工業を創設する本田宗一郎さんも出場していたが、アクシデントでクルマから放り出され九死に一生を得たというエピソードがあり、インヴィクタの優勝よりもこちらの方が話題となった。それはともかく優勝したインヴィクタだったが、その後は詳細不明というか消息が不明となってしまった。

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