ホンダの急成長とともに時代を駆け抜けたエリート
約1000台が生産されたというロータス・タイプ14エリートだが、そのうちのごく一部は、日本にも正規輸入されていた。このほどRMサザビーズ「Cliveden 2024」オークションに出品されたシャシーNo.「EB1321837」は、1961年に日本へ輸出された3台のエリートのうちの1台。ロータス側の記録によると、1961年8月23日に「芙蓉貿易株式会社」に請求書が発行されている。そして日本での最初のオーナーは「世界のホンダ」こと本田技研工業の創設者、本田宗一郎であった。
「エリートは、世界初の卵のようなクルマでした」
と、宗一郎の長子であり、ホンダから独立したチューニング&レーシングカンパニー「MUGEN(無限:現在のM-TEC)」創業者である本田博俊氏は、2021年に英国「Classic & Sports Car」誌のインタビューで語っている。
「ロータス・エリートには、フレームも独立したシャシーもありませんでした。当時、それはまるでUFOのような存在で、常に新しいものに興味を持っていた父には、とても新鮮だったようです」
たしかに、宗一郎へのエリートの影響は大きかったようで、その息子は、ホンダ初の量産車である「S500」のダッシュボードにインスピレーションを与えたと信じている。
1962年、ホンダが三重県に建設を完了したばかりの「鈴鹿サーキット」で、伝説の日本人ドライバー生沢徹氏がエリートをテスト走行させた。いっぽう若き日の博俊氏は、サーキットが正式にオープンする前に「スプーンカーブ」でエリートを横転させ、このサーキットで最初の事故を起こすという不名誉な記録を残してしまう。
「当時、日本にはロータス・エリートが2台しかなく、修理できる人がいなかった」
と彼は回想する。
「最終的に東京の中心部に小さなガレージを見つけたが、修理に時間がかかった」
このときエリートは「ジェットブラック」に塗り直されて本田家のガレージに戻ったものの、東京の薄暗い街路で幾度となく事故寸前の状況に遭遇したため、博俊氏は父親にボディを夜道でも目立つホワイトで、今いちど再塗装するよう懇願した。










































































