トヨタの誇りを背負い、BMWと正面から向き合っていた場所を訪れる
ドイツ在住モータースポーツジャーナリストの池ノ内みどりさんが住むミュンヘンに、トヨタ自動車のスポーツカー部門を率いていらしゃった多田哲哉さんが、退職後旅行で訪独されました。かつて90系スープラの開発拠点があったフランクフルターシュトラーセ(フランクフルト通り)にある、多田さんが当時行きつけにしていたカフェで待ち合わせ。改めてスープラの開発事務所があった建物を訪れてみると……。
看板さえなかった世界に冠するトヨタ自動車のスープラ開発拠点
かつてトヨタ・スープラをBMWと共同開発をしていたころ、トヨタはBMWの本社近くに開発事務所を構えていたそうです。スポーツカー部門を率いていた多田さんは、スープラの開発業務の一環でBMWとのミーティングやテストなど、数え切れない程ミュンヘンへ渡航していたとおっしゃいました。
トヨタを退職して、今回の奥さまとの旅行ではフランクフルトに到着後、1993年から駐在員時代のお住まいや思い出の場所を辿った後に、いくつかの街をのんびりとクルマで周っていたそうです。そして、いよいよかつてスープラの開発事務所があったミュンヘンにお越しになったというわけです。
カフェでの多田さんと待ち合わせてひと通りおしゃべりをしてから、スープラの開発事務所があったビルに向かいました。外装もすっかり変わってしまいましたが、多田さんは事務所が入居していたビルの前で感慨深く何度も入居階を見上げていました。当時は駐在のスタッフが3名、出張ベースで多くのトヨタ自動車関係者が、日々スープラへの情熱を注いで励んでいらしたわけで、そのビルを見ているだけでも感慨深いものがありますね。
何度かビルの前で日本人を見掛けたことがありましたが、外にトヨタを示す看板は一切出ていなかったこともあり、スープラの開発事務所だったと私が知ったのはずいぶん後になってからでした。
7年の歳月をかけたスープラの開発はBMWとともに歩んでいた
さまざまなモデルの研究・開発、製造が常に平行して稼働しているトヨタ自動車では、納車を心待ちにしている顧客の元に一日も早くクルマを届けるためにも、各セクションのスタッフが常にフル回転で従事しています。
多田さんが担当されていたスポーツカーの部署では、86の開発には4年を要し、上層部からハッパを掛けられていたそうですが、スープラの開発には7年の年月が費やされたそうです。86やスープラに費やされた開発時間の長さには、スポーツカーならではのクリアしなければならないさまざまな法規制や制約があったのではないかと想像できます。
ドイツの自動車メーカーの関係者と話をしていたら、ラインに載せる直前にボツになったモデルもあると聞いたことがあります。ドイツに限らず恐らく日本の自動車メーカーも同様だろうと思いますが、例え7年もの歳月を費やされたとしても、スープラがボツになる可能性も無きにしも非ずだったかもしれません。日本とミュンヘン駐在のトヨタ自動車の方々がBMWと共同での研究・開発をした日々があったからこそ、世界中のファンが待ち焦がれたスープラの復活劇に繋がったのですね。

名古屋~ミュンヘンを何度も往復のシャトル出張通勤
「最初の1~2年は本当にうまくいかなかったし、BMWとも意思疎通が取れなかったですね」と、いまだから笑顔で語ってくださった多田さん。お互いに正面から向き合ったからこそ、さまざまに軋轢が生じるのも難しくはなかったろうと推察できます。当時を振り返りながらスープラ開発事務所があったビルをスマートフォンで写真に収め、次は徒歩で10分程のところにあるBMWのFIZ(開発拠点)までのんびりとお散歩しました。
この日は土曜日だったため周辺は静かでしたが、ここはBMWとの重要なミーティングが何度も行われていた場所です。スープラの事務所があった場所と同様に、サラリーマン生活最後の出張の日々を過ごした地を奥さまに説明していたのが印象的でした。奥さま曰く、ご自宅では一切仕事の話はされなかったそうで、仕事場を一緒に訪れることもこの旅が初めての経験だったようです。当日は天気に恵まれ、美しい青空の下での仲睦まじいおふたりの後ろ姿がまるで素敵な絵のようでした。
スープラの生産が開始されるまでの7年間、名古屋とミュンヘンを何度も往復していた多田さん。会食などでミュンヘン市内を訪れたことは何度かあるものの、観光では一度もないと伺い、とても驚きました。翌日にはご夫妻をお誘いして観光に出掛けてみることにしました。






































