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最高速305.52km/hでゼロヨン11秒153! ノーマルを装った「マインズ」渾身のR32「スカイラインGT-R」が誕生するまで

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TEXT: 増田髙志  PHOTO: GT-Rマガジン編集部

  • マインズR32GT-Rのリヤビュー
  • 新倉代表

チューナーの心に残る厳選のGT-Rを語る【マインズ新倉通蔵代表】

 絶対的な速さや、圧倒的なパワーだけでは成し得ないひとつの成果。心に染み入る特別な感情。幾台もの作品を作り上げる中で今も心に残る1台。日本を代表するGT-Rスペシャリストが特別なデモカー秘話を展開する。

(初出:GT-R Magazine 141号)

マインズ設立前の下積み時代を経て

 イチ早くエンジン制御の重要性に着目し「コンピュータチューニング」というジャンルを、世の中に広めた人物。それが『マインズ』の新倉通蔵(にいくら・みちぞう)代表だ。特別に電気に強いわけでもない新倉代表は、ごく普通のクルマ好きの少年だった。クルマに携わる仕事がしたくてブリヂストンのタイヤ販売会社に就職。チューナーとしての独立を夢見て日々仕事に励んでいた。

新倉代表

 休日にはトムスやTRD、それに東名自動車といったファクトリーに顔を出し、「チューニングに対する考え方や心構えのようなもの」を学んでいたという。

 夢が叶ったのは、タイヤ販売会社に従事してから12年後。昭和61(1986)年にマインズは誕生した。当初、トムスの看板を掲げていたほど関係は深く、その流れもあって力を入れていた車種はZ20型トヨタ・ソアラやA70型スープラで、7M-GTと1G-GTエンジンに主軸を置いて展開していた。そんなことからオープン当時は「トヨタの上級車種を扱うショップ」というイメージが強かったそうだ。

「トヨタだけ、というわけではなかったんです。トムスからいろいろとアドバイスをいただいた関係で、最初に力を入れたクルマがトヨタだった。いきなり日産もスバルも、とはいきませんからね」と新倉代表は当時を振り返る。

GT-R以前は新しいジャンルで四苦八苦

 オープン当時からすでにエンジンチューニングの必須項目は制御だと主張。しかし、さすがの新倉代表にとっても、そのころはまだメインコンピュータはブラックボックスで、自動車メーカー以外の人間には触ることが許されない未知の領域という認識だった。そこでサブコンの「フューエルハッカー」を開発して燃調を取っていたのだ。

「7M-GTはパーフェクトにコントロールできましたが、1G-GTだとそうはいかなかった。フューエルカットの領域を変化させると点火のタイミングがおかしくなってしまう。どうやっても思うようにコントロールできませんでした」

 新倉代表がサブコンの限界を感じた出来事だ。これをきっかけにメインコンピュータでの制御を決断。早くも1988年には当時、禁断と言われていたメインコンピュータに手を入れた「VXロム」を誕生させる。

 しかし、最初からうまくはいかなかった。メインコンピュータは制御のスケールが大き過ぎて、想像以上に手強い。そのころには日産車も取り扱っており、第1弾となるR31スカイライン用のVXロムと格闘していた。気の遠くなるような数字の羅列であるデータを何とか理解し、ノーマルタービンでのブーストアップが完璧にこなせるようになった。

 だが新倉代表はそれだけでは満足しなかった。GT-Rの復活を予告するかのようなGTS-Rで、VXロムの可能性を追求したのだ。排気量を2.2Lに上げて、タービンは純正のTO4EをからIHIのRX-6 F1に変更。大容量インジェクターを使い、それをメインコンピュータだけで制御する。当時としては斬新で画期的なセッティングに挑んでいた。

谷田部でGTS-Rの最高速に挑戦!

 その実力を試すステージとなったのは、当時、茨城県の谷田部にあった日本自動車研究所の高速周回路、通称「谷田部」である。どれだけの速度が出せるのか。「最高速」への挑戦であった。

「比較的手の込んだ仕様の場合、ほかのショップはみんなサブコンとサブインジェクターを使って燃調を取っていました。でもわれわれは困難を承知でVXロムと容量を増やしたメインインジェクターだけの制御に挑みました。これが一発で決まればかっこよかったんですが……」

 なかなか決まらなかったと新倉代表。それでもメインコンピュータでの制御に拘った。今でこそサブインジェクターを使っていたら、効率の悪い時代遅れの燃料増量法と判断できるが、当時サブインジェクターはパワーアップの証と捉えられるところがあった。現にサブインジェクターを使って多くのショップは記録を出していた。「奇をてらって話題を取ろうとしても無理だ」という声が新倉代表の耳にも届いた。しかし、いくら無謀だと言われようと諦めなかった。理想は絶対にメインコンピュータでの制御だと確信していたからだ。

「当時、谷田部には月に何度も出向いていました。もちろん取材です。記録が出るように雑誌がチャンスを作ってくれたんです」

 それでもチャンスはなかなか生かせなかった。満を持して2台のGTS-Rを用意した谷田部では、あろうことか2台ともエンジンブロー。しかも場所が同じだった。それがきっかけとなって、水温補正が悪さをしていたことを突き止めた。制御の壁となっていた部分だ。壁を乗り越えたことで、やっとF1タービン仕様のGTS-Rはセッティングが決まり、1988年11月に290.556km/hをマーク。新倉代表にとってのターニングポイントとなる記録だ。ここからマインズの快進撃が始まる。

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