お子さまには刺さらなかったが大人になって良さがわかる名車
1970年代中ごろ、子どもたちの周りにあるさまざまなモノがクルマ関連グッズと化した空前絶後の「スーパーカーブーム」。当時の子どもたちを熱狂させた名車の数々を回顧するとともに、今もし買うならいくらなのか? 最近のオークション相場をチェック。今回は生産台数わずか226台とマイナーな存在でありつつも、優れたフロントエンジンGTカーだった「イスレロ」です。
フェルッチオ・ランボルギーニは「ミウラ」や「カウンタック」よりこちらがお好み
スーパーカーブーム全盛時に子どもたちを熱くさせたランボルギーニといえばミッドシップ2シーターの「ミウラ」および「カウンタック」だ。しかし、じつはこの超有名な2モデルは、フェルッチオ・ランボルギーニの理想から少し外れた存在であった。フェルッチオはイスレロのような豪華で快適なフロントエンジンGTカー(2+2もしくは「エスパーダ」のようなフル4シーター)のことが好きだったのだ。
実際、ランボルギーニのチーフエンジニアであったジャンパオロ・ダラーラがミウラの開発を提案したときに、フェルッチオは「どうせ、そんなクルマは売れないが造ってよし」と言い放ったらしい。そしてミウラの後継モデルとなるカウンタックがプランニングされたときにフェルッチオはすでにスーパーカービジネスの第一線から一歩退き、カウンタックが市販開始となった1974年の時点では手持ちのランボルギーニ株をすべて売却して会社を離れていた。
ビジネスマンズ・エクスプレスとして好評を博した
そのような背景はスーパーカーブーム全盛時に子どもたちには伝わるはずもなく、ミウラやカウンタックばかりがチヤホヤされた。しかしその一方、フェルッチオの理想を具現化し、ランボルギーニ初の量産車として登場した「350GT」や、その後継モデルである「400GT 2+2」の流れをくむフロントエンジンGTカー(ある意味、こちらがメインストリーム!)も継続的にリリースされ、1968年に登場したイスレロは400GT 2+2の発展版として、4L V12エンジンを搭載していた。
スーパーカーというよりもビジネスマンズ・エクスプレスとして好評を博したイスレロは、イタリアン・エキゾチックハイパフォーマンスGTカーとしてはスタイルが地味すぎたのか、後継モデルの「ハラマ」が1970年に発売されたときに引退したので、いま思うとスーパーカーブーム全盛時に注目する子どもたちが絶望的に少なかった。筆者もスーパーカーブーム全盛時にその存在は知っていたが、実車に遭遇する機会は無く、写真を見ても感動することはなかった。