ランチアのWRCタイトルに貢献した「デルタHFインテグラーレ16V」
最初の1台は1990年のランチア デルタHFインテグラーレ16Vだ。世界ラリー選手権(WRC)が、1986年末でグループBを終了し、1987年から改造範囲が厳しく制限されたグループAで争われることになった。これに対処してフィアット・グループが次の主戦マシンに選んだのが、5ドアハッチのコンパクトカー、ランチア デルタである。これをベースに開発されたグループAのホモロゲーションモデルがデルタHF 4WDであった。
改造範囲がより厳しく制限されたグループAならではで、1987年にデビューしたデルタHF 4WDは、1988年にはデルタ インテグラーレ、1989年にはデルタ インテグラーレ16V、そして1992年には最終モデルとなるデルタHFインテグラーレへと進化を続けていった。
ここで紹介するのは、そのデルタの進化形、1990年のデルタHFインテグラーレ16Vだ。同年のサンレモでディディエ・オリオールが優勝を飾った個体である。競技車両だけに毎戦ブラッシュアップされているが、この個体は1987年から1993年までに、6度のマニュファクチャラーズ・タイトルと4度のドライバーズ・タイトルを獲得したシリーズの集大成と位置づけておかしくない。
(※最終進化モデル、1992年のサファリでユハ・カンクネンが2位入賞したデルタHFエボルツィオーネはワークショップでメンテナンス中であった)
グループB終焉のきっかけとなった悲劇のマシン「デルタS4」
2台目は、悲劇のヒーローとされたグループBマシン、1986年のランチア デルタS4だ。WRCを戦う最高にして最強のカテゴリーだったグループBは、年を追うごとに危険なまでの速さを備えるようになっていった。そのグループBに向けてランチアがリリースした主戦マシンがデルタS4であった。
実戦デビューは1985年の最終戦、RAC。このデビュー戦でヘンリ・トイヴォネンとマルク・アレンが見事な1-2フィニッシュを飾っている。本格参戦となった翌1986年も開幕戦のモンテカルロでトイヴォネンが優勝して好スタートを切った。ところが、第5戦のツール・ド・コルスでトイヴォネンがトップ快走中にコースアウトから崖下に転落し、コ・ドライバーのセルジオ・クレストとともに死亡するという痛ましい事故が発生した。
そのアクシデントも原因のひとつとなり、グループBは終焉を迎えることになる。しかも最後のグループB王者を狙って、カンクネンを擁するプジョーと激しい戦いを展開し、一度は王座を手中に収めたかに思われたが、プジョーの抗議によりFIAの査定で逆転し、デルタS4もアレンも無冠に終わった。それだからこそ両者は悲劇のヒーローとしてファンの記憶に残っている。今回紹介した個体は1986年のニュージーランドでアレンが、サンレモでダリオ・セラートが2位入賞を飾った個体である。サテライト(ワークスではない)参戦のセラートは1-2-3フィニッシュの2位という大金星であった。
アウディクワトロに後輪駆動で挑んだ2WD最後の勇者 「ラリー037」
そして最後の1台は、2輪(後輪)駆動の最後の勇者、ストラトスの後継ラリーカーとして開発された1984年のランチア ラリー037だ。当時はアウディが先鞭を切った4WDが威力を増してきていたため、ランチアとしても4WDの必要性を感じていたようだ。しかし、開発期間を考えた結果、ストラトスでも知見を重ねてきたミッドエンジンの後輪駆動というパッケージが採用されることになった。
具体的には、ジャンパオロ・ダラーラが手掛けたシャシーは、ベースとなったベータ・モンテカルロのセンターモノコックの前後に鋼管スペースフレームを組み合わせる手法を採用した。エクステリアデザインはピニンファリーナが担当し、ライバルのラリーカーとは一線を画した流麗なボディが大きな特徴となっている。
実戦デビューは1982年のツール・ド・コルスで、翌1983年シーズンにはマニュファクチャラー・タイトルを奪っている。同年、ツール・ド・コルスとサンレモで勝ち、マニュファクチャラー・タイトル獲得の原動力となったアレンの活躍が深く印象に残っているが、ここで紹介したマカルーゾ・コレクションのラリー037は、1985年のコスタ・ブラーバでミキ・ビアシオンが優勝を飾った個体そのものである。
















































