ヨーロッパとアメリカにおける輝かしいレースヒストリー
RMサザビーズ「Monterey 2025」オークションに出品されたこの美しい200SIは、現役時代からビッグレースで戦歴を刻み、現オーナーのもと17年間の所有期間を通じて入念なフルレストアとヴィンテージレースへの参加を経た、とくに希少な逸品である。
この個体は、シャシーNo.2425。製造された28台の200SIのうち、23番目に当たる。マセラティ・クラシケの文書(原産地証明書、工場製造シート、納車シートの写しを含む)によれば、シャシーNo.2425は当初2Lエンジンを搭載し、1957年7月に完成した。当時のアメリカ合衆国正規代理店である「マセラティ・コーポレーション・オブ・アメリカ」への納車が予定されていた。
こうした記録があるにもかかわらず、この200SIは1957年4月のジーロ・ディ・シチリアでジョルジオ・スカルラッティがクラス優勝(総合3位)を果たした車両として、長年認識されてきた。この勝利は、イタリア中部および南部地域のマセラティ販売代理店グリエルモ・デイの個人チーム「スクーデリア・チェントロ・スッド」のサポートのもとで達成された。
その後、この200SIは再びスクーデリア・チェントロ・スッドによって9月の「GPカドゥール」にエントリーされ、アンドレ・ロエンスがポルシェ「550 RS」やフェラーリ「500 TR」など、多数のライバルを退けて総合優勝を勝ち取った。
これらの欧州でのレースを経たのち、マセラティはテキサス州ダラスのディック・ホールが所有する「キャロル・シェルビー・スポーツカー」社に購入された。こうしてようやく当初の予定どおり米国へと輸出されることになった。
兄のホールは、販売したマシンたちを弟であるレーサー、ジム・ホールのドライブで走らせることによって、頻繁に宣伝した。彼の所有するマセラティ群には、新車として直接米国に流通したとされる9台の200SIのうち、少なくとも4台が含まれていた。
1957年10月、サンディエゴのアワーグラス空軍基地で開催された予選レースで、シャシーNo.2425を駆ったジム・ホールはクラス2位(総合3位)に入賞した。翌日の本戦でもクラス2位(総合5位)を獲得した。11月初旬、パームスプリングスで開催されたSCCAナショナルイベントでは、このテキサス人ドライバーは再びクラス2位(総合8位)に入賞したが、その数週間後のラグナ・セカ戦とリバーサイド戦では、序盤でリタイヤを喫してしまった。
1958年、このマセラティは熱心なSCCAプライベートレーサーであるロバート・ボブ・クーン中佐に売却された。クーンはMG「TD」を皮切りに、シアタ「208S」、アバルト、ACブリストルと、興味深いレーシングマシンを次々と乗り継ぎながら徐々に頭角を現していた。彼とシャシーNo.2425での活躍には、1958年9月のライムロックでの総合6位、3週間後のワトキンス・グレンでの「フォーミュラ・リブレレース」総合5位が含まれる。
そして1962年までに、このマセラティは別のレーシング・プライベーターで、のちに悪名高きマスキー法(大気浄化法)の共同起草者となる米海軍退役軍人、オットー・クラインの手に渡った。クラインは、その後3シーズンにわたって200SIを数多くのレースに出場させた。1963年5月にウィルモットヒルズで開催されたSCCA(Sports Car Club of America)公式地域戦ではクラス1位、その1週間後にローレンスビルで行われたSCCA地域戦では総合優勝を果たすなど、このマシンは北米SCCAスポーツカー選手権では確固たる地位を築き上げていた。
























































































































