1995年、ブガッティ2度目の落日
1995年8月末には、1台のEB110SSが日本の鈴鹿1000km耐久レースにエントリーされた。それは一見華やかな話題にも見えたが、実際はその影で撤退の準備が始まっていた。鈴鹿1000kmでエントラント兼ドライバーとなったモナコの若き実業家、現在ではフォーミュラEチームオーナーとして知られるジルド・パランカ・パストール氏に、カンポ・ガリアーノ工場に残っていたEB110用コンポーネンツ、EB110およびEB112のプロトタイプとそのパーツなど、すべての資材が委譲された直後に、ブガッティ・アウトモービリ社およびエットレ・ブガッティ社は閉鎖の憂き目を見たのである。
衝撃の破綻後、イタリア政府の管理下に置かれたブガッティ・グループは、その後長らく再建の道が模索されたが、なかなか光明は見えてこなかった。しかし1998年、当時の取締役会会長であったフェルディナント・ピエヒ博士の主導により、独フォルクスワーゲン・グループがブガッティの商標権および製造販売権を獲得。ブガッティはフォルクスワーゲンの100%子会社「ブガッティ・オトモビル」として第3期を迎えることになる。そののち現在に至る活躍は、AMW読者諸賢ならご存じのとおりである。
いっぽう、かつて威容を誇ったカンポ・ガリアーノ本社工場は、破綻直後の一時期は地元モデナの繊維メーカーが使用権を取得し、改装のうえで新たなファクトリーとして活用されるとの噂も聞いたが、結局のところ現在に至るまで事実上の放置状態となっている。
今でもマントヴァからモデナに向けてアウトストラーダA22号線を走っていると、右手に巨大な工場跡がまるで廃墟のごとく晒されているのだ。
自動車史上最高のブランドと、その文化の再興を目指したアルティオーリ時代の第2期ブガッティ。うたかたの夢のごとく儚く過ぎ去り、深く関わった者の多くは、決して浅からぬ傷を受けることにもなった。
それは極東の一拠点で勤務した筆者も同じことではあったが、その一方で「ブガッティ文化の再興」という壮大なプロジェクトの一翼を、たとえ小さなパートであっても担ったことは、生涯の誇りでもある。
「ヴェイロン」と「シロン」、およびその派出モデルたちを擁して、21世紀ハイパーカーの頂点に君臨する現代の第3期ブガッティは、間違いなく「我々の」第2期ブガッティの遺産から発展したもの。そう確信する資格が、我々にはあると思うのだ。